吾が道しか往けない猫 “Milo and the Magpies”
泳げるのに穴をくぐれない猫。塀からは降りられるのに小屋の上からは降りられない猫。他所宅へ堂々侵入するのに人の肩に飛び乗る勇気はない猫。
奇妙な猫。皆同じ猫。
冒険好きな灰猫・Miloのとある日の帰り道、おうちまであと屋根3軒分というところで、彼は気が立ったカササギからの襲撃に遭い馴染みの帰路から外れてしまった。
知らない家の庭先に宅内にと、手探りの迂回路を辿りながらMiloがおうちを目指す、というストーリーの下で展開されるポイント&クリックである。
この作品は開発から販売に至るまで、Rusty Lakeシリーズに携わるスタッフが多く関わっている。マヌケがプレイしたシリーズ作品は “Rusty Lake Hotel” のみなのでそれとの比較しかできないのだが、そちらのクレジットに載っている名前のほぼ全員がこちらのクレジットでも確認できる。
シリーズ間に直接的な繋がりは一切ないと思われるが、システムのデザインや醸し出される雰囲気に類似点を見出せる。
中身も同様かと思いきや、パズルとしての構造はRusty Lake Hotelとは異なりしっかりねじられていて、その点ではいい意味で期待を裏切られた。
全ての情報が一つの解決すべき事柄に集約されるため、情報同士の結びつけ方や遠ざけ方にバリエーションがあった。解くにはいたずらな総当たりではなく観察と推察が必要になる。
全9章だが各章につき解決すべき事柄がたったの一つなのでさっくり終わってしまうが、短さに反してパズルとしての満足感は高かった。
とはいえ、全てがそうだったわけではなく、総合すると積極的にはパズルと呼びたくない気持ちが勝る。
理解よりも先に解けてしまう章もいくつか存在するし、Rusty Lake Hotelでいうところのサブの食材探しのように、この作品にもsecretsと題された収集要素が存在していて、それらはパズルでもなんでもないただのかくれんぼでしかなかった。
マヌケは9章のsecretを見つけられず、解決には外部ヒントを頼っている。
また、覚えた満足感もパズルの構造に頭を使った実感があったというだけで、ゲームが面白かったわけではない。これはポイント&クリックとしての構造に覚えた違和感に由来していると思われる。
この作品のポイント&クリックは一人称、つまり画面上の物体に対してプレイヤーが直接干渉、操作するシステムなのだが、クリア条件はMiloの誘導である。
直接ガラスを割ったり石を持ち運んだりすることはできるのに、Miloを持ち運んだり、彼の興味を引けるアイテムでおびき寄せたりすることはできない。
この視点のずれがもたらすぎこちなさと、台本に沿った順序通り以外の進行が認められない息苦しさに、マヌケはこのゲームを素直に楽しむことができなかった。
もしもこのゲームが三人称視点、つまりアイテムの使用や状態変化などを全て間接的にMiloの誘導でのみ行う方式だったならば、また別の感想になっていただろう。
ポイント&クリックの構造といえば、フォーマットがシンプルなためか、いかに舞台を着飾れるかを競う側面もあると思うのだが、この作品の世界は間違いなく魅力的だった。
描き込まれた世界はただ写実的なだけでなく、そこに生きる動物たちや住民たちの息遣いが感じられそうなほどで、引き込まれてしまいそうになるようなリアリティが確かに存在していた。
だが、この世界の中でMiloは浮いていた。他の動物の仕草はそれらしいのに、Miloの表情や振る舞いはどことなく人間臭く猫らしさに欠けリアリティラインから外れていた。カササギなんてみっともなく羽根を撒き散らし糞を漏らしながら必死に逃げるほどなのに。6章でMiloが踊り出した時は思わず乾いた笑いが出た。
この猫らしさの欠如は作中論理としてMiloの行動を制限するものとして機能していたこともマヌケの印象を悪くした。猫なのに跳べるのか跳べないのか高さの基準が曖昧でだらしなく、カササギの威嚇には怖気づくのにハイタカの捕食には飛びつける理屈がわからない。飼われているといえどとても猫の生存戦略ではない。
かつてマヌケは謎解きの単調さと舞台および作中論理に対しての生理的嫌悪感からRusty Lake Hotelに不満を残したものの、こうして振り返ってみるとポイント&クリックとしての構造は基本に忠実だったのだと今更ながらに思う。
ポイント&クリックのプロトコルは則るべき前提としてマヌケの中で想像以上に大きなウェイトを占めていたらしい。構造がパズルの形をしているかどうかやモチーフへの印象などは、その先にある面白さに対するマヌケの好みでしかないのだ。