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パズルゲーム感想アーカイブ

任命責任の所在 “Undertale”

自称ですらない非パズルゲームを扱うという珍事。
ほとんどネタバレ項目として閉じているので読む際はケツイをみなぎらせて開くべし。

誰も倒さなくていいRPG (The RPG game where you don't have to destroy anyone.)というキャッチコピーを掲げたゲーム。
マヌケも興味があったわけではないのだけど、関連したネタを色々な所で擦られては関係ない場所で出すなと嗜めるという、未プレイの人間にはサッパリなやりとりをあちこちで幾度となく見てきたことから、外野の喧嘩を眺めて苛立つよりは理解した方が建設的かと思いプレイした。

ネタバレが深刻なゲームとして広く知れ渡っていて、マヌケもプレイしてみてその通説に同意する形でこの感想は全編ネタバレ項目として目隠しさせてもらった。少々狭苦しいだろうがご理解いただきたい。
……マヌケとしてはキャッチコピーの時点で既にいくばくかネタバレをしているように思えるが。

ネタバレ項目: パズルを自称しているのは誰か

マヌケはこのゲームに関する情報がまっさらな状態でプレイしたわけではない。きっかけの通り、不本意ながらも擦られたネタ程度の知識を持った上でプレイしている。
このゲームに関して持っていた情報は (真偽の程は別として) 以下の通り。

  • Motherライクなゲームであること
  • ネタバレが致命的となるゲームであること
  • キャッチコピーの通り、誰も倒さずともクリアできるゲームであること
  • フラウィは「クソ花」と呼ばれ蔑まれている、つまり腹に一物を抱えたキャラクターらしいこと
  • サンズが作中一番の人気キャラクターとして地位を確立していること
  • Gルートと呼ばれる全員虐殺と思しきエンディングが存在すること

サンズは知っていてもMegalovaniaは知らなかった程度には歪な知識ではあるが、振り返ってみると、これらを知っていたせいで損なわれた驚きはなかったように思う。

主人公にデフォルトの名前がなかったようなので、マヌケはおちたニンゲンに「ミヤギ」と名付け、自分と同一視する形でプレイ。
以下、「私」は「ミヤギ」と名付けられたニンゲンのこととして記載する。

フラウィとのチュートリアルからして彼がクソ花と呼ばれる所以の片鱗を見て、このゲームが面白くなることを確信。
不殺が可能なゲームとは知っていたものの、「こうどう」コマンドが見せる「私」とモンスターの珍妙で愉快なやりとりが楽しくて、「たたかう」コマンドは自然と使わなくなっていくと同時に、早々に「敵」という概念が消失していた。

トリエルとの対峙では遂にたたかうことで何かしらの展開がなされないかと期待したが、不意のクリティカルによって意図せず最初の犠牲者を出すことに。いせきを出る前から既にこうどうを進んで選ぶようなプレイだったが、彼女の見せた母性の行く末、彼女が残した「いいこでいるのよ」という言葉が呪いのような形で「私」のケツイの源となった。
とはいえ、ケツイの側から直後にヒョー坊が1匹犠牲になっているのだが……。

トリエル (と、ヒョー坊) の十字架を抱えた「私」の旅路は、罪悪感に苛まれながらも楽しいものだった。地底の世界が国を挙げてニンゲン殺すべしと宣っておきながら、そのニンゲンを前にして魔法の弾とジョークを挨拶のように交わす世界でどうして笑わずにいられるだろうか?

だがこの世界は光ばかりではない。いせきそっくりなニューホームを見てトリエルの正体を察し、イメージとは正反対の心優しい王様のアズゴアの姿にたたかうのをためらうも、結局「私」は彼を殺すことを選択した。妻を殺したニンゲンにみのがされるなど屈辱的だろうと思ったし、今後落ちるニンゲンのことも考えて「私」の手を汚してでも終わらせるべきだと思ったのだ。
結果としてアンダインが憎しみを引き継ぐだけで終わってしまったが……。

ではフラウィはどうしたか?
彼が怪しい旨はサンズからも聞かされていたし、度々「私」の跡をつけるような姿を目撃していたので、地上に辿り着くまでに何かしらの行動は起こされるだろうとは思っていたが、それでも彼が取った行動は予想外だった。
さらに言えば、彼がこのゲームにおいて世界から一つ上に浮いた存在であることを理解したのもここが初めてのタイミングだった。
彼との戦闘は負けイベントかと勘違いして一方的に何度も嬲られたこともあり、私の意思で言えば倒してしまいたかったが、トリエル (と、ヒョー坊) とアズゴアを殺した「私」はみのがすことを望んでいた。
彼はどうしてみのがしたのかと疑問を投げかけてきたが、そんなの私が聞きたかった。

そうして再び始まった私の2周目。
不殺縛りでもう一度やり直せ?いいえ!その前に私の好奇心が勝った。「私」は向かってくるモンスターを全員殺して地下を去った。だが私が期待したことは何も起こらなかった。
後に残ったのは期待外れという私の無責任で自分勝手な結論と、後味の悪さとサンズの呆れたような怒り、そして中途半端だというフラウィの嘲笑だけ。
本当に中途半端だったからこうなったに過ぎず、私の出した結論は全くの的外れだったのだが、それをわかろうはずもなく。

中途半端と言われてもやれることはやったわけだし、そろそろ真面目に進めてみるかと「いいこ」を取り戻した「私」による3周目。
文字通り三度繰り返しても一切変わらなかった結末に何故だろうと思うも、あっさりフラウィがネタばらし。通り過ぎた場所を戻って探索するという発想が抜け落ちていたマヌケはアドバイスに従ってようやく友達作りという名のデート行脚に繰り出した。
誘導されているようで癪ではあったが、ハッピーエンドに必要な友達作りの内容はそのような気持ちを払拭するほど楽しいものだった。何度大爆笑したかわからない。

善きニンゲンとして信頼を得た「私」はこの世界の恐ろしくも優しい真実を知り、フラウィの正体を知り……。

(Undertale) しんじつのラボで突然掛かってきた電話に対して、主人公は声の主に聞き覚えがないという反応をしている
「私」は、「ききおぼえのないこえ」に対して「ひさしぶり」と答えたのだ。

クライマックスへと駆け抜けていく物語、「私」と遊べることを面白がるアズリエルとの最終決戦は希望に溢れる最高の戦いだった。愉快なこの世界で、「私」は絶対に彼に日光を浴びせてやるつもりだった。

しかしながら、私は物語における最高のエンディングで一人絶望した。彼を地上に連れていくことが叶わないのもそうだが、私は今まで「私」のことを何も知らなさすぎた。
私の物語は「私」のものではなく「フリスク」のものだった。そして本当の「私」は立派なニンゲンではなく、むしろその逆だった。
地上へ出た後何がしたいかと問われ、「私」の物語を奪われた当てつけのようにトリエルとの同居を望むも、いせきでの戦いでフリスクが家に帰りたがっていることを見抜いていた彼女に、それを言ってくれれば苦労はしなかったのにおかしな子、と正論を返され何も言えず。フリスクはプレイヤーから独立した一人のキャラクターのはずなのに、それを考慮する余裕は私にはなかった。

共に戦う仲間ができるわけでもなく、勝利のためにできる範囲で戦略的行動を取るわけでもなく、戦闘も数字で殴り合うのではなくシューティング風のアクションと、どこがどうRPGなのかがさっぱりわからなかったマヌケだが、ここに至ってようやくその意味を知ることとなった。
ロールプレイとは役割を演じるということ。地底のモンスターを地上へと導くのは「フリスク」の役割だった。私はフリスクになりきることも選べるが、この物語において本来「私」が与えられた役割は何だろうか?
その答え合わせは遂になされた。ならば私は演じようではないか。憎悪に満ちた最低最悪のニンゲンを!

ケツイを持って始めた「私」の4周目。
「フリスクのしあわせをうばわないで」というフラウィのセリフは、私にとってはもはや煽りに等しかった。
一度は虐殺の真似事をした過去があるので「私」を正しく覚醒させるには何かしらの条件があるとは踏んでいたが、自力で調べる気力はなく外部ヒントに頼ることに。
外部ヒントで得たのは殺害のノルマだけだったので、いわゆる雑魚が無限湧きではないという事実に驚き、探索時に見せる本当の「私」の片鱗に我ながら驚き、そしてトリエルに入ったダメージに驚くも、この時点で既に私は「私」としての自覚を持っていた。

(Undertale) Gルートにおけるいせきの出口における会話で、フラウィーは主人公のことを最後におちたニンゲンではなく、最初におちたニンゲンと同一視している
そうだ。君の電話に答えた、私だ。

サンズの諫言も虚しく、パピルスをワンパンで殺し、アンダインに阻まれるも殺し、メタトンを破壊し……しかしながら、私はサンズによってものの見事に「サイアクなめ」に遭わされていた。
パズルの奴隷がやるアクションなどパズルアクション程度で純粋なアクションになるほど門外漢なのである。特に覚えゲーなどは作業的ゆえに特段苦痛である。どんなに悪辣になりきろうともできないものはできないのである。
おかげで「私」は随分と情けない悪役となってしまったが、それでも彼を殺そうとする試みをやめなかったのはひとえにそれが私達に与えられた役割で、役割を与えられた者としてそれを遂行しなければならないという奇妙な義務感だった。
マヌケも物語を一つの舞台とみなすことにこだわりすぎたのか、あるいは満身創痍の死闘に精神をやられていたのか、からくもようやく斃したサンズが画面外で呟いた譫言を「パピルスと舞台袖で飯を食おうとしている」と本気で誤解したほどだ。

そしてようやく覚醒した「私」だが、私はその姿に唖然とした。「私」が破壊しようとしているのは物語世界の何かではなく、物語そのものだった。
私はいつかやられる日を夢見て「私」を演じていただけで、舞台ごと壊すつもりという発言は到底許容できるものではなかった。そのようなことをすれば「私」ごと消えてしまうではないか!
私の手を離れた「私」を一発ぶん殴れないものかと、「私」とは別の名付けられたニンゲンを依代としてもう一度地底を巡るも「私」の姿はどこにもなく、足取りを掴めないままハッピーエンドを迎えるも、そこでようやく「私」を見つけて、その胸糞悪いラストシーンにもはや「私」は私の手には負えなくなってしまったのだと悟る。
「私」に物語の悪役を演じ切る気概はまるでなく、ただただ私に責任転嫁して最も安全な立場でふんぞり返るだけ。こんな腑抜けた奴に私は手を貸したというのか……。

この物語に私の望む結末はどこにもなかった。永遠に救われることのない世界がただ一つ残されただけである。余韻としてはひたすらに最悪である。
しかしながら、「私」が役割放棄で終わったことがくだらないだけで、私が「フリスク」および「私」と辿った一連の物語は非常に思い出深いものだった。
徹頭徹尾フリスクの物語だとすれば心の奥底から抉り出されたようなこの絶望に気づかなかっただろうし、この世界に対する思い入れが深くなることもなかっただろう。

ところで……。
そもそもパズルとして売り出してすらないRPGで、ここではそういったゲームの感想は残さないつもりでいたのだが、マヌケはなぜ感想を残したのか?

(Undertale) たくさんの「パズル」があるという、いせきの管理人・トリエルからの忠告
(Undertale) 急に作動し始めたパズルに関する、ホットランドの女学生との会話

作中のキャラクター達が語るように、あの地底におけるパズルとは彼らの日常の中にあるものだったからだ。

しかしながら、彼らが残したパズルの数々はお世辞にも出来のいいものとは言えなかった。ほとんどが適当に動かしても解けるものばかりで、中にはプレイヤーが悩むより先にヒントが提示されるものや挑戦もさせてくれないものすらある始末で、侵入者を阻むための装置としての信用は甚だ怪しい。
とはいえ、これらは物語の演出の小道具として使っているのだから、パズルゲームとして真面目に作り込まないのは正しいだろう。パピルスなんかは作った本人をして「ダメダメなパズル」なんて言ってしまってるくらいだし、所々に見受けられる不親切さを利用した謎解きを見るに、大真面目にパズルを作ろうとすれば意地悪を難しさと履き違える愚行を冒しかねない。

パズルの感想はたったのこれだけと、バカでもわかるような薄っぺらな内容だが、それでもなぜマヌケは書かずにはいられなかったのか?

(Undertale) 「パズルのなんたるか」が理解されないことを嘆く、年配のパズルマニアとの会話
(Undertale) 年配のパズルマニアが認めるパズルとは「あたまを うんとひねらんと とけん ホネのあるヤツ」

ウォーターフェルで会うことのできる「ねんぱいのパズルマニア」。頑固で意地悪な印象を抱かせるキャラクターだが、パズルの奴隷たるマヌケとして、彼に同意する形でアンサーを出したかったのだ。
これほどまでに熱く語るのだから、パズルゲームの造詣はさぞ深かろう。僭越だろうが、パズルの奴隷としていつか彼の褒め称える古き良き至高のパズルを紐解かせていただきたいものだ。

マヌケがパズルの奴隷ゆえに結末同様に興醒めな結論となったが、このゲームは私にとってとても思い出深い一作となった。
キャラクターの行動や戦闘における演出なども、システムを理解した上で振り返ってみれば全てが出来レースで、そのための仕掛けがあちこちに散りばめられていたわけだが、初見ではそういった作為は微塵も感じず、まるで自らケツイを抱いたかのように自然とその道を選び進められるように設計されている。
苦手ゲームジャンルが音ゲー・シューティングの人間にはこのゲームの戦闘は大変だったし、予想外に存在したパズルはマヌケの心を満たすものではなかったが、何かしらの使命を帯びて世界を渡り歩く「ロールプレイ」は十二分に楽しむことができた。

(Undertale) スノーボールゲームにおける赤の旗の説明文「どんなに あらがっても じぶんは じぶん」

余談だが、Gルートは単なる好奇心だけで進めるようにはなっていない。事実、私はPルートの前に一度その真似事をやって中途半端な結末になっていて、完遂したのは物語によって生やされた設定による影響が大きい。しかしながら、止めにかかったサンズの台詞や背後に言及したフラウィとの会話の通り、制作者としてはプレイヤーの好奇心による選択の結果を想定しているように見える。
アズリエルの親友たるおちたニンゲンに残虐性を持たせられたのはプレイヤーに言い訳として逃げる先を用意した結果なのか、プレイヤーの好奇心の暴走を見越してなのか……真相はわからないが、主人公がフリスクであるように、「私」もまた本当の名前と個性を有しているらしい。

このゲームの世界には綴られる物語の舞台で生きる存在、舞台の仕様を察知できる存在 (フラウィやサンズ)、舞台をゲームの作品として俯瞰できるプレイヤーと同じ視点に立てる存在の3種類が存在していて、「私」は3番目の存在に該当する。
もし「私」がプレイヤーに依存しない元来の役割を持つならば、「私」の居場所はあの世界には存在しないとも言える。だが同時に、もしそれが満たされた場合、舞台上の立ち位置を維持できるのか?という疑問もある。答えを出すと立場の優位性を失うがゆえに役割を放棄するしかなかった、という見方もできるだろう。

(Undertale) Gルート2周目以降のエンディングにおける、最初におちたニンゲンとの対話

いずれにせよ、私は「私」を永遠に許さない。オリジナルのおちたニンゲンが黒幕として存在していたとしても、私が憎むのは「私」ただ一人である。
いつかはっ倒せる日が来たら、その時は自分から出たペルソナといえど容赦はしないから覚えとけ。人がノリノリで悪役RPやってる隣からいきなり台本を奪うマンチ野郎にかける慈悲があると思うなよ。