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パズルゲーム感想アーカイブ

自己決定権 “OneShot: World Machine Edition”

神様はねじを巻くだけ。

黄色の猫目が特徴的な人の子・ニコが無事に元の世界へと帰れるよう導く謎解きアドベンチャー。
ニコが目覚めたのは、どう見ても電球にしか見えない物体を指して「太陽」、それを抱えるニコを指して「救世主」と呼ぶ者たちが暮らす奇妙な、そして暗澹とした世界である。

元は2014年に公開されたフリーゲームだったが、同名のセルフリメイク作品が2016年にSteamで発売され、さらにこのリメイク版を元にWorld Machine Editionの名を冠する家庭用据置機向け移植作品が2022年にマルチプラットフォームで発売されたという経緯がある。
上記のトレーラーはSteamで流れるリメイク版のものだが、マヌケがプレイしたのはタイトルの通り移植版である。

ネタバレが深刻なゲームとして広く知れ渡っていて、マヌケもプレイしてみてその通説に同意する形でこの感想は全編ネタバレ項目として目隠しさせてもらった。少々狭苦しいだろうがご理解いただきたい。

ネタバレ項目: Third Time's A Charm

冒頭のトレーラーにわざわざリメイク版を持ってきたのは、ネタバレを回避した移植版のトレーラーが存在しないからである。
パブリッシャーが用意したトレーラーはいくつかあるが、いずれもゲームの外であるはずのPCの空間及び機能を利用したトリックを隠していないため、完全なネタバレの回避には至っていない。

ティーザーの堂々たる明かし方はいっそ清々しいほどだが、ニコとプレイヤーの対話は驚くべき事実ではなくゲームの主軸として序盤からあらかじめ理解されるべき事実であるということを考えると、既プレイの人々も巻き込んで耳目を集めるべきティーザーとしてあながち悪い戦略とも言えない。
ネタバレが深刻なゲームとはその事実だけで衝撃的な何かの隠匿を暗示してしまうし、メタな仕掛けが魅力のゲームとして既に十分すぎるほど有名になっているので、徹底的にネタバレを回避しながら広告するメリットは薄いという判断もあっただろう。
実際、マヌケは幸運なことに今まで「メタな仕掛けが魅力のゲーム」という情報しか知らない状態でプレイできたが、仮想マシン上で動かすゲームという形態を見た時点で物語の展開および謎解きに関してある程度の予測が立ってしまったので、無知によるアドバンテージは大してなかったように思う。

謎解きの内容だが、各地を歩き回ってアイテムを集め、指定の場所で使うことで物語を進めていくという、ツクール製謎解きアドベンチャーでは一般的な内容である。
パズルとして考えると、歩き回る必要性の薄さと探索の見落としやすさが上がる関係でこういう形式はそもそも好きではないのだが、このゲームは仕様によって探索がそれ以上にやりにくくて仕方がなかった。
広大な世界を区分けする形でマップを構成しているが遷移のラインが不鮮明、太陽を失った世界という表現のために暗い視界、反応のある物体とマップの密度の小ささなど、世界は探索漏れのリスクだらけである。実際マヌケは収集要素のみならず進行に必要なアイテムすらもいくつか見落としてしまった。拾える物だけ目立たせても、そこに至る経路がわかりにくければ意味はない。
さらに、苦労の末に可能となる謎解きも一つの情報で芋づる式に解けるという点つなぎばかりであり、解いた謎の結果同士のねじれもなければ、謎解きの手法に再帰性があるわけでもない。ゲームの外での作業が必要ないわゆるメタな謎解きもどこまでもただの一発芸にすぎず、それを利用したさらに複雑な思いつきを要求するというような内容はない。探索ばかりが苦痛で情報が揃ってしまえば呆気ないという、よくあるつまらない謎解きの形式そのままだった。
羊の倉庫番で脱出不可能な解答を正解として用意するぐらいなので、結果的につまらなくなったというよりは、元々パズルとして真面目に作られてはいないのだろう。

とはいえ、それも仕方ないことなのだろう。プレイヤーの謎解きがいかにつまらないとしても、それらは目的ではなく、使命のための手段でしかない。
そもそも、このゲームの主題は謎解きではない。最初に提示される通り、プレイヤーの使命はニコが元の世界に帰れるように助力することである。このゲームの主題とは使命を全うできるか、つまりニコに感情移入できるかどうかである。
そして、このゲームはその一点においては間違いなく正しく成功していた。元々ニコは親愛をもって接したくなるようにデザインされているが、それだけならば単にキャラクターがかわいいだけのゲームでしかない。この物語は構造として、自然とニコに感情移入できるような設計になっていた。

このゲームにおいてプレイヤーの行動はニコの意思という形でフィルターを通されてしまうため、ニコを操作するゲームではなく、ニコを導くゲームとして終始している。ゆえにこのゲームはどこまでもニコの物語であり、プレイヤーはただ映写機を回すだけの脇役でしかない。プレイヤーの行動はニコに影響すると忠告されるが、このフィルターのおかげでこのゲームにおいてニコに影響を及ぼせる要素は実はほとんどない。ゆえに時に残酷な事すら指示してしまっても、それを選択するのがニコである限り、この物語が壊れることはない。
しかしながら、ニコは旅の終わりで物語の主人公としての役割を放棄して、脇役のはずのプレイヤーに委ねてしまう。タイトル通りの一度きりの選択、太陽を戻すか壊すかの二択のことである。この選択によって、本来脇役としてニコを眺めているだけでいいはずのプレイヤーがニコと同じ立場まで引きずり降ろされてしまう。
そして役割はそのままに、本来ならば物語の進行以外の権限を持たぬはずのプレイヤーに選択権が渡される。もう一度同じ旅路を繰り返すか、日記を頼りに境界を超えるかの二択である。これを選ぶのはニコではなく、プレイヤーである。境界を超えた場合、ニコはその結果明かされる事実の数々にプレイヤーだけでなく世界にすらも不信を抱くようになるが、その後世界を救いつつ自分も元の世界に戻るという決心をすることによって、主役はようやくニコへと戻る。
つまり、この物語はニコとプレイヤーとで主役のバトンパスをし合う関係にある。そしてバトンパスのタイミングにプレイヤーの自由意思による選択が置かれていることで、その連帯感がより強まりやすい構造となっているのだ。
プレイヤーと主人公とが分離したゲームでありながら、ストーリーの進行を抵抗なくできるようになっているのは見事と言う他ない。
ちなみに、境界を超える展開はアップデートによる後付けで、元々の主題はニコに何をさせるか、世界とニコのどちらを選ぶかというプレイヤーの選択のほうにあったらしい。そうであったならばニコはプレイヤーの選択材料の一つにすぎないただの操り人形になっていただろうから、徹頭徹尾ニコの物語として着地させたのは正解だったように思う。

ニコとの一体感は素晴らしかったが、しかしながら救われる世界への没入感はあまりなかった。より正確に言えば、ワールドマシンとそれが描く世界は魅力的だったが、その設計に関わった人々への印象は最悪だった。「作者」とその周辺人物に関しては皆その説明が曖昧かつわかりにくいものだったせいで、聞くのが苦痛な長話をしたがるくだらないキャラクター共という印象が強く残ることとなってしまった。
これはプレイヤーの属する世界を物語上どう扱うかの擦り合わせをせず曖昧にした弊害だと思われる。ワールドマシンの世界はゲームとしての設定でもストーリーにおける設定でも独立した世界で変わりなく、ニコおよびニコの世界もまた独立した存在で変わりなかったが、「作者」とその周辺人物の属する境界外の世界の詳細は語られない。彼らが属していた「現実世界」とは作中とは別の独立した世界なのか、あるいは誰かに読まれる物語の舞台と了解した世界なのか、はたまた制作者自身をアバターとしたメタフィクションなのか、彼らはその詳細に関して語らない。異なる世界間の整合を投げて中途半端な説明しかしないせいで、物語の盛り上げにかかわらないどころか、逆に話をわかりにくくしてしまっている。もっと簡略化しても全く問題なかったはずだ。
フレンドという項目を作ったり、作中で「作者」を万能の存在として褒めそやす描写などを見るに、これでもまだ語り足りない裏設定が山のようにあるのではないかと思えてならない。
物語において大事なのは誰がなぜ何をするか、つまり脚本である。ただの設定語りほど聞いていてつまらないものはない。
「作者」の子供たちは他のNPCとは違うのだというたいそうご立派な自負をお持ちだが、境界外でもセッションのリセットは可能で、その時の記憶を持ち越すような芸当を見せることもない。生きたキャラクターを自称するなら、好奇心を咎める小言の一つくらい言ってみせてほしかった。

手法が斬新なだけで基本的に不親切な探索を強いられる場当たり的な謎解きしかない自称パズルで、語られる真の世界の姿も退屈でつまらないが、主人公に対して真剣な気持ちで応援できるという長所は他の短所を覆すほどに大きい。
後世で強い影響を受けた作品として多く名が挙がるのも納得である。移植に伴う仕様の違いなどで軽減されてしまった驚きもあるだろうが、それでも十二分に楽しむことができた。

余談だが、マヌケは最初のセッションの最後の選択肢で太陽を戻すことを選んだ。壊して元の世界に帰れるなら最初にプレス機でぶっ壊せばよかったという話になってしまうので、その選択肢がなかった以上、マヌケに太陽を割る選択肢はない。
とはいえ、流石に即決とはいかずに数分は悩んだ。あの世界の人達ならばきっと力を貸してくれるだろうと思っていても、元の世界を、ママを恋しがる子供のニコを見ていると「いつ戻れるかはわからないけどしばらく今の世界で頑張れ」などと何の保証もない先行きの暗い未来を提示できるはずもない。最終的に決め手になったのは太陽を壊して顔面蒼白になったニコの夢だった。ニコが自分で後悔するよりはマヌケが恨まれるほうがマシだろう、と。
その時は悩むと同時に苛立ってもいた。決断を迫られる展開は予想してたけど、まさか投げっぱなしにされるとは思わなかったので、少しは自分の思考を開示しろと本気で頭にきたものだ。だからこそ、最後のセッションでどちらも諦めない選択を自ら選んでくれたのは本当に喜ばしいことだった。

また別の余談だが、このゲームはニコがいる間はもちろんのこと、ニコの帰還後ですらもワールドマシンがニコの代役をする形で周回プレイが可能である。ただし、ワールドマシンによる周回は最初のセッションの再現だけで、Solsticeのキーワードから始まる越境の選択肢を残すセッションをプレイすることはできない。
これはワールドマシンが境界外の出来事を認知できていなかった事実を示すと同時に、あの出来事は「作者」の子供たちにとっての一度きりの賭けであったという二重の意味を示す見事な表現である。
だが一方で、救世主を要する世界の構造とニコへの感情移入を目指す主題、一度きりの体験というキャッチコピーを鑑みると、周回プレイを必要とするような要素の意義には疑問が残る。
せっかく下したプレイヤーの選択をふいにするようなものだし、塔も馬鹿正直に登り直し、ワールドマシンとのやりとりもやり直しとナラティブな旅路が機械的なものに成り下がってしまう。
この移植版では収集要素がさらに増えているが、特にジョージのフレンド項目はコンプリートを目指すと最低6周、期待値にして約15周が要求される。ギャラリーのジョージは1周で全部解放されるにもかかわらずだ。
再進入不可の境界外の収集物に対する救済措置を用意する配慮がある一方、コンプガチャに等しい要素を放置するバランス感覚はまるで謎である。

またまた別の余談だが、マヌケはこのゲームに興味を抱いていたと同時にプレイに乗り気でもないという矛盾した感情を抱いていた。色々と魅力的な謎解きアドベンチャーとは聞いていたが、パズルが形骸化しているのも経験則で予想していたからだ。
その矛盾を打ち破ったのは、この作品に影響を受けて作られたとある別作品をプレイしたことだった。以下にその作品に関連した余談を残す。
メタなゲームに影響を受けたと言うとそれだけでネタバレになりかねないので、タイトルは項目名にヒントを残すのみで、残りはネタバレ項目として目隠しさせてもらった。

ネタバレ項目: goto spoiler

このゲームをプレイしたのは直近でプレイしたゲーム “Detective Mimo” の影響である。サーバルームに飾られたイラストのうち、ゲームが元ネタのものはどれもメタな仕掛けで有名な作品だが、マヌケはこのゲームだけ未プレイだった。
Detective Mimoは影響を受けた作品の要素や構造がどれだけ反映されているか、その程度の差がかなり大きいので、このゲームとの類似性もはっきりさせるべきだろうとの考えでプレイしたのだが、その結果Detective Mimoにはもはや盗用としか言えないような流用が予想以上に存在したことがわかってしまって、その創意工夫のなさには呆れるしかなかった。

“Detective Mimo” のトレーラー。
“OneShot” 移植版トレーラーと瓜二つである。

盗用されたアイデアの一つに背景と絵合わせする謎解きがある。このゲームでは前後の展開も併せて一際印象的に残るこの謎解きだが、直近で全く同じトリックの謎を解いているにもかかわらず、なんとマヌケは思いっきり悩んでしまった。
そもそもマヌケは崩落した坑道を廃棄されたトロッコの山と盛大に見間違えてしまっていたのだが、そこに青く塗り潰されたトロッコのメモが提示されたので、そのトロッコを探し当ててガスなりエビなりをぶちまけるのが正解だと勘違いしてしまったのだ。何を調べても何の反応もないので、ガスをかけるべきトロッコを特定すべく日記の位置を合わせていたら偶然解けてしまった、というなんともアホな解決の仕方をしている。
同じトリックにもかかわらず、組み込み方の違いでここまでアプローチも残る印象も変わるのだから面白い。Detective Mimoでは単に道を塞ぐ壁の一つにすぎなかったが、このゲームでは物語の選択肢そのものなのだから、その意味は比べるまでもない。

関連項目

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